自我の連続性とか[thought]

我思うゆえに我あり
というのがフィクションだ、と気づいてみるのもおもしろい。
人格は環境によって規定される部分が大きい。
「生まれ変わっても私でいたい!」と(その人にとっての)世界の中心で叫ぶ人に対して
(こう言える人は本当に幸福でしょうね)
「わしがあんたに生まれ変わったら即自殺するわ!」と毒付くやりとり。
しかし怖いのは、おそらく後者が前者に生まれ変わったらやはり同様のことを世界の中心で叫ぶであろう、という推測。
(補足:そもそも生まれ変わりとかがナンセンスです。話としては面白いのですが。)

自分は自分で他人は他人で、でも他人にとってはそこが自分で、
そんな当たり前のことに気が付いてみる。
哲学の世界では多分、よくある議論、またはとっくに通り過ぎた議論。


こういう会話が普通にできるところが今の職場環境の最高に「愉快」なところ。
朝の会話は
「主体的」が正解のところに「自主的」という誤答は成立するのか問題。
「主体的」でなくても「自主的」な行動は可能ではないか?
いやいやチュチェはどうなのか。


「まぎらわらしい誤答つくるのいくない!」
の一言で終わる会話を引っ張るのが我が眷属の特徴。^^;
最高。