デバイスが思考を規定する

昨日のコメントはありがとうございました。
攻殻的サイボーグ的文脈で非常に楽しい話題。
二人が共に「Youも知ってるあの人がこんなこと言ってたYO」って言ってるのもちょっとおもしろいですね。


うまく説明できないと思うのですが、
僕が漠然とイメージしてるのは、
言葉を使わずに考えること
がアウトプットできるんじゃないか、みたいなことです。
言語を使わずに思考することを言語で説明しよう、というのがそもそもかなりハードルが高いのだけど。
英語で考える人は英語で考えるし、日本語で考える人は日本語で考える。
それは、言語に規定された思考になるのではないか。
僕は、遊びでやる腕組み、指組みもたまたまそうですが、かなりのレベルで一般的に言われる右脳優位人間です。
言葉にするのがもどかしいことがものすごく頻繁にあって、
言葉にせずともなんとなくわかったり、わかってよ、みたいなこともあって、(それが仕事なんかだと非常によくないのですが)その肌感覚というかなんというか。
(でも、多分、言語化できる限界まで言語化してみる、という行為はもちろんたまらなく刺激的なはず。)
漠然と、位置と大きさと色と形と運動、みたいなもので世界を認識しているような感覚が、おぼろげにある。
1+1=2でない世界が、例えばベクトル計算の世界にはあったりするわけで、そういう言葉を越えた思考を直接どうこうできるデバイスがあることで新しい地平が開けるんじゃないか、という希望を持ったりするわけです。


ちょっと話は飛んで、
結局、神の概念は、脳によるイメージである。
で、神は脳を越えられない。
小さい(体積のことではなくて、多分ネットワーク密度の)脳は小さい神。
だったら、大きい脳は大きい神をイメージできるのではないか。
瀬名さんが、Brain Valleyで描こうとしたのはそういったところだったと記憶しています。


バイスに規定されたイメージの話。