親亀の背に乗る亀たちの側で昼寝をしている兎

某所のインタビュー記事。
http://ascii.jp/elem/000/000/117/117286/


ハイライトは

情報の出所です。マスコミを批判しているサイトも、一次情報はマスコミだったりするじゃないですか。ココロ社は小さいながらも一次情報から自分なんです。お出かけ情報とかも自分で現地に行って写真や動画を撮って、コメントも自分で作ったりと。
ココロ社のコンセプトはインターネット初期の考えに近いんですよ。


徹底した一次情報たることの追及にはまったくもって頭が下がります。


一方で、僕は、前世紀末の「オリジナルなんてもうない。僕らがなしえるオリジナル、は組み合わせ方のオリジナリティだ」という思想にものすごく共感しています。
自分が言いたいことは、どこかの誰かが過去言っているに違いない、なんて思ったりもします。
(卑近な例では、4000年前から「近頃の若者は、、、」と言われている、とか)


自分が、慣れ親しんでいる科学※の方法論も、膨大な先行研究から思考を進められる場所を探して、その部分を進めていく、いわば、膨大な人間全体が推し進める科学という作業体系の一部を分担している感じを持っています。
(親亀の背に無数の子亀が乗り、またその子亀に、、、一方で親亀もまたその親亀に乗っていて、、、というフラクタルなイメージ。)


今までになかった概念を生み出すのは、天才の仕事です。
科学の方法論は、天才でなくても、なにかを生み出すことが可能な枠組みなのだろうと思います。
そんな中、孤高に天才たらんとする姿勢は、輝きを持って迎えられるべきだ、と思うのです。


※科学というと自然科学のことだけをイメージする人がいるのが個人的には結構イライラするのですが、自然科学だけでなく人文科学・社会科学ももちろん。というかこうした分類に、もちろん一定の効能もあるのはわかりますが、視ることをオミットする原因にもなるのはまったくもって残念です。と自分自身も食わず嫌いがないとは言えないので、偉そうなことは言えないのですが。