友人と長い話をした

長いと言っても2時間程度。
南の島の風が強くて、時折、風が混ざって、声が聞こえにくい(機種変更をしたこの端末では話し中の音量調整ができないのだろうか。。。)感じが、なんとも味わい深かったりもした。
もちろん、98%ぐらいは聞こえていたので大丈夫だけど。
遠くの犬の吠え声も聞こえるぐらいの伝達率。


外在化している思考というか主体性というか意識というか。
周囲の人間の期待に応えたい、という気持ち行動が決定される、ということはある。(最近で言えばKY的な)
初期的な周囲の期待は親だったりするわけだけども、こういう人はうっかり有名私立中学に入学して有名大学に行ってしまったりする。
一方で、他人にひかれたレールを行くのはカッコ悪いことで、自分の意志でそれを選択しているのだ、とすることを周囲に期待されていることもあり、自分の意志で自分が行動していると信じて振る舞うが、もう、今となっては、最初の駆動力がなんだったのかはわからなくなっている。


そこに、多大な時間的空間的経済的社会的なコストをかけて、「自分探し」が行われる内部的要請が生まれる、そんな話をした。


一方で、最近、気になっているテーマに話言葉(パロール)と書き言葉(エクリチュール)、言文一致運動、などがあって、書き言葉は書いた人間が期待する通りに読み手に伝わらない、という問題を抱えていることを踏まえて、どうコミュニケーションをしていくのか、なんてことを考えたりしている。