糞話

久々の言語タグ。
ベビーシッターって発音悪い人が発音すると、赤ちゃんウン○マンみたいな感じに聞こえる!?
という話をしたら「かつて本邦の総理であった竹下さんは、take sh*t!みたいに聞こえたらしくて、、、」と教えてもらいました。
ありゃま〜。
しかし、たしかにそう聞こえそうだ。
なんでこんな話題にって、ジャイアント馬場(=でっかいウン○)さんの大阪での印象とかそういうあたりから。。。


スオミにも、アホネンとかアホヤネンとかおられるそうで、シニフィエシニフィアンの恣意的な関係(アホを表す概念をアホと表現する筋合いは本来的にはなく、関係性の中でアホをアホと呼ぶことが通用・実効するからアホをアホと呼ぶようになったのであって、、、、※)を痛感します。


そういえば昼には、シダックスの会長はシダさん、イナックスの会長はイナさん、ヨネックスの会長はヨネなんとかさんという他愛もない話(そういや、リニュクスはLinusさんが作ったユニックス。)をしたので、なんかそういうあたりが活性化していたのかもしれません。



この辺の話から、さらに展開すると、
僕の大好きなダジャレの話になっていきます。
ダジャレとか替え歌とかは、ひとつの表現が複層的に意味を表すあたりが自分的には好きなのだと分析しています。
アホはスペイン語ではニンニクのことだったりして、アホスープ(ソパ・デ・アホ)というと別になんのことはないスープなのに、日本語のアホの影響でなんだかとてもなごめるのです。
が、その複層性ということには、実はなんの意味もなくて、
夢で逢いましょう。」を「You may die in my show」としたり、
「最後のシ者」で「渚」だとかそういう遊びは巧いかもしれないけど、それ自体に価値があるかのような態度はいかがなものか、という先輩の姿勢は理解できなくはないのです。


ダジャレの持つ意味の複層性は物語が持つ土着性の話に繋がるように思います。


その先輩は、土着的であることから逃れようとする小説ばかり書くので、なかなか認められないようです。
(が、時間の問題だと思いますけど。)
先輩の小説は、安易な予定調和や規制の枠組みを崩そうとする試みであって、それは大成功していると思うので。


ともあれ、こういう話をすることができる人がすぐ近くにいる幸運をかみしめないといけないのだと思うのです。
(永遠ではないでしょうから)


と、あまりにも文章を練らずに書いてしまっているので、つながりがひどすぎますよね。
もっと丁寧に書ける時が来たら書きたいと思います。