罪を憎んで人を憎まず精神はどこまで有効か

許しがたい犯罪を起こした犯人のことは許しがたい。
それでも、罪を憎んで人を憎まず、なのが賢い現代人の暮らす法治国家なのだ、ということって意外と忘れやすい。
(この辺、誤解もありそうなので法律、特に刑法?をちゃんと勉強している人の意見が聞けるとうれしいです。)


村上春樹アンダーグラウンドを読んだ時にも感じたけど、通じるものを感じる、でも自分はその罪は犯していない。
犯しそうだからつかまえる、というのは暴論だと思う。特定の罪を犯すポテンシャルを持つ存在がいても、実際に罪を犯すまでは明白に無実だから。とは言え、何もしない、ということでは多分なくて、その人が罪を犯さないような仕組みは作れるはず。逆に散髪屋さんが突然キれたら、僕らいつでも文字通り、寝首をかかれるような危険と隣り合わせで暮らしている。


似ているところがあるからあいつもやるんじゃないか、という思い込みをやめたい。(この思い込みは似た事象から別の事象を予測する高度な推論能力そのものであって、経験から学ぶ力が強い人ほど、その思い込みは強く持つのだろう、と思うけれども、最後の最後の差異に目をつぶって、でも一緒でしょ、とする自分もよくする安易な決めつけはやはり気をつけて運用することが大事なのだろうなぁ、と思う。)


一族郎党皆罰する、的な動きを見ると、人間の心性なんてそうそう変わらないんだな、なんて思ったりもする。


でも、そうでもしないと納まりのつかない感情をみんな持て余しているのだろう。