自分探し〜自分は未来で見つかるのではなく過去で見つけるものかもしれない

自分はよく道に迷うので時々、自分の来た道を振り返る。
昨晩、定時で帰宅して(すみませんでした。。。)ぐっすり二度に渡って(19時〜24時、3時〜6時)睡眠を取ったので体力の方が回復基調。
昼過ぎに、思い立って車のコクピット※に乗り込んだ。


ぼーっと高校生の時にカセットテープに録って何度も聞き直していたシティハンターのドラマチックマスターとスナッチャーのサントラを(後者を今聞いたのはMGS4発売の余波だと思う。今聞いてもまったく色あせない感じはすごい。まだ部分的にしか時代がサイバーパンクに追いついていないからだとは思うけど。ネオコーベシティが舞台だったのは忘れてた。)聞きながら走った。
13時に出発したので目的地の15〜16時に着けばそれなりに写真も撮れよう、そもそも今はケータイ国盗り合戦の国を増やすという非常に都合のよい「旅に出る理由」がある、なんて考えながらそれでも無心で到着したのは、14年前に車の免許合宿に行った伊那市


上京して3ヶ月。ロクに東京のことも知らないまま、バスで運ばれ、一ヶ月弱暮らした町だ。
桜の名所高遠城は桜のシーズンでもなければ雨だったこともあり人は皆無。
夜なら、荒城の月を作詞できそうな荒城ぶり。
町には、当時はなかったブラジル食材店。
道を歩く人にはブラジル人が目立つ。


あれ?


未来世紀ブラジル?(違)


特に工場があるわけでもないので、農業従事者を呼んでるのかなぁ。。。
あと100年もすればなんの違和感もない景色になるのかも知れないけど、今はなんとなく違和感。
(東十条に引っ越した時、駅で日本語が聞こえなかった時のことを思い出した)


もとい。
その後、木曽の方を回って下道をどんぶらどんぶらと帰宅しましたとさ。

ところで、自分は、疲れた時には、幼少期に好きだったドラえもんをなんとなく読み直してみたりする。
幼少期に何に触れて育ったのか、を確認してみると、自分という人格がどのような部品で作られているのか、がリバースエンジニアリングできるような気もする。
過去の自分がいた場所を訪れることしかり、過去の自分が触れた作品を味わいなおすことしかり、こうした作業こそが、自分探し、なのではないかな、などと思う。
日本の原風景が残っているのだ!とかそこにこそニンゲンの生がある!とか言いながらタイとかインドに行くのがいわゆる自分探しのイメージだと思うけれども、少なくとも僕の「自分」はそんなところでは見つかる気がしない。
まぁ、自分のことやり方もやり方を失敗すると、幼児退行とか、誰もボクを傷つけない楽園回帰、みたいなつまらない話になってしまいそうなので注意が必要だとは思うけれども。


※実にどうでもよいが、コクピットというと幼児期から大好きな巨大ロボットの操縦席を思い出して知らずワクワクしてしまうのだけど、よくよく考えると、手漕ぎボートの総舵手(コック)の入る穴(ピット)って意味だと気づく。たしかに、零式戦闘機など羽をもげばボートだ。F1の機体も車輪やカウルを除けばボートだ。そう思うと、自動車の運転席はやはり運転席(シート)であってコクピットではないなぁ、、、などと思う。時々、車の外装がイメージから外れて、みんなが椅子に座った姿で高速移動しているビジョンが頭に浮かぶが、滑稽でしかたがない。