一本道

年々ひどくなっているように思うのだけど敷かれたレールを走るのが嫌いらしい。
ただ、一方でレールを敷かれていないと進めない場所もある。
そういうところでは、銀河鉄道999のように最初はレールが敷かれていて、宇宙に出るところでレールがなくなる、あのイメージが自分には丁度いい。(いやあれも、空間軌道があって、とかそういう話はいいです^^;)


念のために、断っておくと、ボクのリーダーの方にはかくあって欲しい、という話ではない。
そもそも、「かくあれ」というのがレールなので、つらい。
互いに。


今、やっているゼルダトワプリがどうにも気にくわない理由は、どうもその辺にあるようで、あの一本道感が自分には苦痛らしい。
なんでもあり、のフリをして、その実、一定のフラグを立てないとストーリーが進まない。進んだらもどれない。
本質的に同種のゲームである大神は同時多発にサブイベントもいくつか立ち、その中から自分で今やることを選べた。そこが自分にはよかったような気がする。(同様にワンダが辛いのはそこで、巨像に会う順番が決まっているのです。で、頓挫。)


ゲームにおいては、上手に誘導して最後まで飽きさせないことが一つのクオリティになると思うのだけど、結局これをやれってことでしょ?が見えすぎるとボクにはつらくなってくる。
これは加齢によるものかも知れない。
はっきりと、これまでの自分の経験を下の世代に還元していく世代なのだ。きっと。
(もちろん、今の仕事には、そうした側面が多分にあり、そこがやりがいに当然なっているのだけれども。)


最近、楽しく文学論議をさせてもらっている先輩との話の中で、
小説でも同様で、プロセスがゴールの奴隷になってしまっているテキストの限界についてよく話す。
プロセスをゴールの奴隷にしないことに対して
マルチシナリオはひとつの回答だし(その意味で月姫は本当に美しい構造だった)
FSSが意識してか無意識かはともかく、結果としてそうなっていることは、「年表」という縛りの中でどれだけプロセスをおもしろく描けるか、そして年表があるからこそあらゆる年代をこの1シーンに折りたためている、とそういうことなように思う。


世界には、輪郭線はない。
ボクのレールに対する嫌悪感・反感は、輪郭線を描く主観を他人に押し付ける行為のうっとうしさに対する嫌悪感・反感なのだと思う。
自分はそうなっていないか、チェックをしつつ、日々。