世代間闘争試論

前の世代と同じことを学んでいる限り、次の世代は前の世代に永遠に勝てない。
物事の理解、というものは、そうそう一足飛びに進まないだろうという前提に立つならば、前の世代が10年かけてたどりついた境地にはやはり次の世代も10年かかってたどりつくのだろう、と思う。


ということは、同じ土俵で勝負する限りにおいて、次の世代は前の世代から見れば永遠の未熟者になってしまうことが予想される。
未熟者の意見は、参考意見として耳を傾けることはあっても、それを全面的に採択することは、考えにくい。
なぜならその意見は前の世代にとって当然踏まえておかなければならないような議論を経ていない未熟なものとして認識されるから。


別にそれは学問とか技術とかに限らず(もしかしたら学問や技術なのかもしれないけど)
アズテックカメラやオレンジジュースを知らずにパーフリ語るな、とか
ビバップを知らずにブラックキャットを語るな、とか
いろいろあるんだろうなぁ、と思うわけです。
電飾の夜景を星空みたい、と言う感覚に近いのかも。
不勉強で全然自分には大したことが言えないけど。
(奇しくも、絶望先生今回6巻のポロロッカという回はこうした逆流現象を取り上げていました)


この辺の話は著作権の話にも通じる部分があるはず。
著作権独占禁止法と同様に、そもそも競争状態を維持させ続ける為のルール(だからあの大国には適用されにくいのです。あらゆるものが国民全体の財産なので)、というのを踏まえつつ。
そこはまた別途考察。


で、無理やり唐突に、話を本筋に戻してみると、永遠の未熟者の意見が採択される可能性があるとすれば、それは異なる世界をリンクさせたその時なのではないだろうか、という話。
前の世代にとって、既知の土俵に踏み込む限りは突破しきれない壁が多分ある。
(当然、ある程度はルールを知らないといきなり手をついて負けたりするので加減が難しいのだけど)


この辺の話においては、蛇足ですが、5つの上のいとこが15年前くらいに、
「他人が書いている本を読んでいるうちは、その本を書いた人を越えられない」みたいなことを言ってたのを思い出します。


まー、そんなことを踏まえて、今の国策としての教育カリキュラムなんかだと、戦後からほとんど変わらず、英語・国語・数学・理科・社会みたいなカリキュラムでやってきているのだけど、そこを意図的に変えてみる、みたいなことをした方がいいんだろうな、という意見には大いに賛同するわけです。
(それをいかに実現させるのか、はまた別途考えないとなぁ。もういい年齢なので。)