空港にて

空港にて (文春文庫)
帰省道中にて。
元は留学情報誌に寄せた小説だそう。
閉塞感を海外に行くことで打破しようとする物語たち。


当然のことだけど、海外に行くというそのことだけで何かが劇的に変わるわけではない。
「自分」は海外には落ちていない。そもそも探すようなものじゃない。
たぶん、海外に行くことのメリットは、行動様式の幅を拡げられるところにあるのだろう。
同じような人たちと同じような日々を過ごしていると段々、考えないで、条件反射的に相槌が打てるようになってしまう。
そうなった人は弱い。
環境に適応しすぎると、環境の変化に対応できなくなる。
だから、出ていくという選択肢は、あり、なのだろうと思う。


一方で。


前世紀末。
バブルのはじけた何もかもがダメというムードの中で、世界を革命しようとした人たちがいた。
(同時期に「世界を革命する力を!」と叫び続けていたアニメが作られたことは興味深い。そのくらい閉塞感となんとか壁をこじ開けようとみんながもがいていたのだと思う。)
その、いまでない、ここではない何か新しいところにみんなで行こうとしたその試みは、ものすごく情熱的に実行されたが、あまりにも反社会的だった。
そもそも、この情熱を裏打ちしていた価値観は近代の価値観であってあまりにも古かった。ずれていた。


明日が今日よりいいとは限らない。
隣の芝生は青く見えても実際には青くない。


ナウシカの最終回でナウシカ腐海と共に生きることを選択するエピソード。
世界の終わりとハードボイルドワンダーランド。
ユートピアに行くのではなく現実であがき続けること。
ぐちゃぐちゃに絡まった二本の紐をはさみを使って切り離すのではなく、少しずつ結び目をほぐしながらほどいていくこと。
(※世紀末を越えて10年が立った今でも有効な価値観なのかどうかはよくわかりません。まったり生きるのうまくなりすぎて、諸々、ものすごく刹那的になっているような感触を持っています。もう少し考えを深めてみたいところ)


蛙のいる鍋を火にかけ、じわじわとじわじわと水温を上げると、蛙は水温の上昇に気がつかず脱出できずに鍋の中で茹であがってしまう、というよく聞くたとえ話がある。


鍋から脱出することは逃げることではないのか。
「なにかをしない」理由付けが得意な人たちの中には、ともすると、こんな詭弁を弄し始める人がいる。


もちろん、ここで逃げることというのは、鍋から脱出することがいいのか今ここに居続けるのがいいのかを検討せず、時間切れに任せる選択をしていることに無自覚なことに違いない。