SとかMとかについて考える時に僕が考えること

いつも面白いid:kokoroshaさんの最新エントリは「すぐSとかMとかに分類したがるやつってなんなの」。
現時点で66億人と言われている人間が2つにラベリングできるわけがないのは、もちろんその通りなのですが、僕は日頃、SとかMとかはソーシャルスタイルの話として楽しむのがよいように思っています。
特に意識しない時に、どのように振る舞うことが多いのか、という接し方の癖というか傾向として。
ちなみに、この振る舞い方の癖は結構修正可能だと思います。
初期には意識してどう振る舞うか、を決めなくてはいけませんが、慣れてくれば意識しない局面でも、そのように振る舞うことができるようになると思います。
もっとも扁桃体レベルで「しないことに決めた」ことに関しては矯正は難しいと思いますが。


で、この振る舞い方の癖が、対象に対して圧を加える側にいることが多い人をS、圧を加えられる側にいることが多い人をMということなのだろうと思います。


見てるとこの対象が他者ではなくて自分自身な人が散見されます。
修行僧的というのか、自身に困難な課題を与え続けるタイプの人。
こういう人のことを僕は勝手にセルフサドなんて呼んでいたんですが、これはよくよく考えると自身を対象として圧を加える志向が強いのか、自身に圧が加えられる志向が強いのかグルグルと回ってくるわけです。


圧を加えて欲しくて仕方がない人は、相手に自身に圧を与えろと強要するでしょう。
その姿は、ほとんどS。


という感じに、SとかMとかはきっと同根だったりするので、その意味でも「すぐ分類したがる」のはあまり理性的ではないかもしれません。
SとかMというのは結局、関係性の問題で(ちなみに「相手がSかMか知りたがる」様は非常にS的ですが)相手に尋ねることで、その人に対してどのように接することが相手が楽なのだろうか、ということを探るやりとりと思えばことさら咎めるような筋合いのものではないように思ったりするのです。


もっとも、SとかMとかは理解が簡単過ぎてその人の本質を見失いやすいので、安直であまりオススメ
できない関係性の築き方と言えはしましょうが。