「世界に一つだけの花」に感じる不快感をひも解く

方々でコミュニケーションを滞らせている中、申し訳ないのだけれども、それは一つひとつ解決していかないといけないのだと思う。
時々猛烈に他人としゃべるのが面倒になることがあって、それはまあ端的に「疲れている」のだ。
仕事では、それでも、コミュニケーションをとらないと仕事そのものが成り立たないのでなんとかするのだが、プライベートが壊滅的になる時がある。
話しかけられるのはうれしいのだけど、返信のための気力が足りない。
情けない話ですが。
始めに謝っておきます。ごめんなさい。


で、本題。
それなりにセンセーショナルなタイトルだけど、誹謗中傷の意図はないつもりです。
自分にとってもあのどこか東欧っぽい旋律をはじめ、カラオケでの歌いやすさなどから、好きな歌の一つなのです。
これまで特に不快感を感じたことのない方は、こういう見方もあるのか、自分とは違う花なのだな※、ぐらいに捉えていただければと思います。


いろいろな人が方々で指摘もしていることだとも思いますが。


この歌は応援ソングです。
なのに、人を駄目にする、そんな歌であるように思います。


別に作った人が前科者だとか言うつもりはありません。そんなことは創作されたものとは独立事象です。


なぜ駄目にするのか、最終的に、駄目な自分を肯定するからです。


女にモテず童貞で、生まれついての不細工でデブでチビで短足でハゲで臭くて脂性で汗っかき、しかもバカで短気でそれでいて怠け者でオタクで貧乏で犯罪者。(書いてて気が滅入りますが。。。)
でも、ちょっと腐臭がして蝿とか食べちゃうような気持ち悪い花だけど、僕は世界に一つの花なんだ!僕はここにいてもいいんだ!
と言ってしまいすぎる歌なように思うのです。
腐臭がするならコロンをつけるとか、蝿を食べるけど、他の人が蝿が嫌いだったら隠れて食べるとか、そういう他者への配慮が本来必要なのだと僕は考えるのですが、この歌からは「ありのままの君でオールオーケー!」みたいな気配が漂っているように思います。


どこまでが自分勝手なのか、どこからが他者への配慮が必要な部分なのか、その基準はあらゆる瞬間で激しく変化します。
一球ごとにストライクゾーンが変わるルールで、しかもこの投球でのストライクゾーンはどれなのかが明示されない状況で僕らはそれでもボールを投げなければなりません。
ストライクを放るには、過去の自分の経験や他の人から教わった知識を総動員して推測しなければならないし、ストライクゾーンがわかっていても、そこに放れる保証もありません。


それでもきっとストライクを放らないといけないのだと思うのです。
ストライクを放ることを目指さないとならないのだと思うのです。


なぜなら、そういうゲームだから。
ルール以前の問題。
ストライクなんてしるか、と言った瞬間にゲームが成り立たなくなるのだと思うのです。


※ずいぶん、後での注釈ですが、もしかすると、実はここがすべて、かもしれないなんていう思いもあります。あの歌は、自分は他の誰ともフィールドを異にしている。だから、他人がどうあれ自分には関係ないし、自分がどうあれ他人には関係がない、というひどく恐ろしい(少なくとも僕にはそう感じる)世界を描写しているようにも思えるのです。



もちろん、人はそこまで強くないので、ありのままを肯定してもらうことは重要です。
自分は恥ずかしながら漫画バスタードでカルスがダーシュに赦してもらうシーンで猛烈にその事実を痛感したのですが、キリスト教の懺悔や南無阿弥陀仏を唱えればだれでも極楽往生できるよ、という考えそのものです。
だからと言って、自分の好き勝手にやっていい、ということではない、そこの加減が何よりも難しいところだし、自分でも、いつになっても後悔することがやまほどあるところです。


がんばることがすべてとも思いませんが、最低限、自分が一緒にいたいと思う人たちからそっぽ向かれない程度には、頑張り続けなきゃな、と思うのです。自分が一緒にいたい人が自分と一緒にいたいと思っているかどうか、ももちろんひそやかに確認しつつ。
だから、
冒頭のような自分の状況を許容してはいけないのだよな、と思いながら、それでもなかなか指が動かない感じを持て余したりしながら、ちょっと動かしてみたり、とそんな一進一退なんじゃないでしょうか。