アイソポス寓話 すっぱい葡萄

自分も往々にしてしがちだけど、食べられなかった葡萄を、あれはすっぱい葡萄だ、と強がって矜持を保つような心の動きがあります。
あの話の中では、木の上過ぎて、手が届かなかったから、だったりするのだけれども、場合によっては道端のアクセスフリーなところにある葡萄に対してさえ、こうした態度を取ってしまうことがあります。


でも、やっぱり食べてみないとわからんだろう、と思うわけで。
馬には乗ってみよ。人には沿うてみよ。


一方で、僕らは無限に時間を持っているわけではないし、「俺様の胃袋は宇宙だ」と言わんがばかりの広く消化の早い胃袋を持っているわけでもないので、あの葡萄もこの葡萄も全部を食べるということは残念ながら不可能。


熟練の葡萄酒職人みたいな人は、外から眺めるだけで、どんな葡萄かわかるのかもしれない。
それは、でも、山ほど葡萄の味見をした人が、葡萄の外見と味の紐付けを一つ一つ確かめながら食べたことから帰納的に導きだした経験があってこそわかることでしょう。
では、どれだけ葡萄の味見をすればその葡萄はすっぱいと言い捨てていいのか。


一般論として、少ない情報からより妥当性の高い一般論を導きだせる人は頭がいい、と言われるように思います。
(名探偵なんかはまさにこれだろう。周囲の登場人物と同じ条件から真実を見いだすのだから。)
それは、経験に基づく推論能力により、不足している情報を増幅してより妥当性の高い結論まで持って行く能力の高さをこそ言うのだと思います。


北極まで行かなくても北極は寒いんだろう、ぐらいのことは想像がつくが、実際問題どの程度寒いものか。
行って初めて分かることもあるし、行かなくても見当がつくこともある。
そのバランスは間違えないようにしたいなぁ、、、と思うのです。


ある刺激を受けた時に、たった一発で、二度とその刺激を受けまいとするようになるような、例えば濡れた手でコンセントを触ってしまうようなショックもあれば、何度でもくりかえしてしまう程度の刺激もあり、その刺激の大きさは刺激を受けたその時の受容器が存在するネットワークの構成に左右されているのだろう、なんて思うと、実に実に、人はフィジカルなところから逃げ出せないなぁ、なんて思いますし、一方で、そのフィジカルな不自由さから逃れ続けようとする心の動き、意思の働きはかっこいいのだろう、とも思います。


もっのすごく苦労して高いところにある葡萄をようやく食べたら酸っぱかった時のショックを一度でも体験すると、葡萄そのものが嫌いになるだろう、というのは想像に難くないし、その人に「いやいや、世の中には美味しい葡萄もあってね、、、」という言葉はもう届かないだろうな、とも思いますが、その届かない感は、残念至極としか言いようがありません。