ほとんど私信:「懐疑的思考」の間違い方について

ここのところ、友人から指摘されている懐疑的思考について考えている中で、なるほど「懐疑」だけで思考を進めることはおかしいのだな、と気づく事例を思いついた。


例えば誰かを好きになる。
その誰かが自分に微笑みかけてくれたら、これは脈があるのかも知れないと思う。
その誰かに挨拶をしてみたが、どうもリアクションが薄いと、これは脈がないのかも知れないと思う。
この積み重ねをいくら重ねてもなんというか、そこからどこにも行かないわけで、フェイズを変えたいのであれば、その誰かに踏み込まないといけない。


思考の周縁部でAだからBかも知れない。CだからDではないようだ。をいくら積み上げても知れないことがある、ということにまずは気がつけた。
(まだこんなところで恥ずかしいけど)