インコがしゃべる話

先輩は、普段、人が死んで悲しい、というような安いドラマで感動した!というような貧困な感性なんて!と主張している。
僕も、確かに感情移入をして悲しかったり切なかったりする、ということはあるのだけれども、感動させるための道具に人の死を使ってしまうことに違和感はたしかにある。
第一、飲み会で飲み過ぎてる人を「死んだ」と言ったり、ダウンタウンの流行らせたツッコミの「死ねばいいのに」みたいに簡単に死ぬことに言及されることに正直抵抗もある。(が、それが、それで本当につらい思いをしている人もいるのだから、安易に使って価値を落とすような真似はよくない、という思いから来ているのか、もっと本質的なおそれから来るものなのか、はまだ自分でも計りかねているところ。)
この辺の死の取り扱い方については、ドラゴンボールに見る簡単に死んでは生き返る感じとワンピースのように誰一人として死なせない、という強い意志あたりを入り口に検討してみるのもいいかもしれない、と感じたりもする。


と、ずいぶんと話がそれてしまったけれども、先輩の話。
そんな彼が、一方で、呆れるほどに涙もろい。
先日、虫を躊躇なく握りつぶし、ゴキブリの佃煮を躊躇なく食せそうなその先輩が、
「インコが、死に際に、もちろんインコがその意味を解しているとはまったく思えないのに『大好き!大好き!だい、、、す、、、』と啼きながらこと切れる様子を、、、だめだ、、、この話をしようとするだけで、涙で前が見えない、、、(号泣)」と感情のたがが外れたかのように号泣しながら「悲しいことなんてないと理性ではわかっているのに!」みたいに感情を持て余している様に驚いた。
自分は自分で、笑い袋の底が抜けて※いるので、その様を一人車を運転中の信号待ち時に思い出して笑いがあふれて困ったりしたわけだけど。
(※他にも、叱られている時に自分の呆れるようなパフォーマンスの低さがなにより恥ずかしくて、なんのボケだよ、と心の中で一人ツッコミも入ったりするのとあいまってか、笑ってしまうようなことがあって非常によくないのだ。)
その辺は子犬を崖から投げる米軍には心からの怒りを感じるが、サンマが投げ込まれてもそんなに怒りは湧いてこなさそうなことと関連しているのかしていないのか。
http://d.hatena.ne.jp/ages/20080306
人は時に残酷です。
残酷であってはならない!と矯正しようとするのは社会生活を営む上でたいせつな心がけだと思いますが、無自覚に残酷なよりは自分の残酷さを自覚して、つきあっていく、というか、それを引き受けてそれでもなんとか足掻きながら生きて行くというような姿勢でありたいと思います。
(漫画のナウシカのラストシーンが腐海を浄化することもできるがそうはせず、腐海と共生していくという決意だったこととかも思い出しつつ)


なんてことを人の言葉を話す鳥の記事↓を見て考えた。
http://r25.jp/b/honshi/a/ranking_review_details/id/1112008120415?vos=nr25mn0000001