蛇足〜動機の問われない結果主義

若干、蛇足にすぎる感じもあるのだけど、対馬〜博多便5往復の話がどうして滑稽なのか、あたりからもう少し考えを進めてみようと思う。
本来、このマイレージの制度は、サービス提供側が自分たちの供するサービスを熱心に使ってくれている上得意様を大事にする、という姿勢を明示することで、より上得意になりたい!という気持ちを引き起こす相互に良い関係のスパイラルを生み出すものだ。
その時、どこから上を上得意と定義するか、という一つ実に厄介な問題にサービス提供者はぶつかる。
圧倒的に上客の場合には迷いはないのだけど、ボーダーあたりに本来上客とは呼びたくない人が混ざったり、その逆が発生したりする。
このあたりは例えば大学入試や採用試験でも発生する複数ある物差しのどれを優先して判断していくのか、といった問題にもまったく当てはまるのだけど、一緒にある問題を立て、検討していく仲間を選考する際に、問題を立てる能力ではなく過去すでに解かれた問題の答えを知っているかどうかで判断せざるを得ない構造がある。
で、この回数乗っているという事実だけをアリバイ工作的に実行する対馬〜博多5往復には、まさにこのプロセスはともあれ結果のつじつまさえ合っていればよいではないか、という思想が体現されていて、それは上客かどうかをサービス提供側が選ぶという「権威」を嘲笑う構造でもあるために快哉の声ともなって出てくる。


サービスを利用する→利用してくれてうれしいから上客認定
という順序ではなくて、
●●だと上客認定される→そのためにサービスを利用する
という逆転が起きている、というとわかりやすいだろうか。
こうしたことはそこかしこで起きているし、自分も利用することはあるのだからクレームをつけるつもりもない。
でも、逆のことをやっている、と自覚があるかどうかは重要で。
自分が踊っているのか踊らされているのか、自分に問い続ける知恵を忘れないようにしたい。


さらに意図的に口を滑らせますが、●●のファン!みたいな構造の中に、●●を聴く自分ってお洒落♪とか●●の良さがわかる私って知的!とかそういう構造とシノニム、みたいなことを匂わせておきます。
(僕なんかは、結構、これやっちゃっててかっこ悪いなぁ、と思うのですが)