磨滅する言葉たち

比喩表現は最初は物事をそれとこれとは確かに似ている!という新鮮な驚きとともに迎え入れられ、聞く人の心を一定量動かします。
しかし、同じ比喩が繰り返されるとそれはもう比喩としてというよりは何の驚きもないただそれを指し示す言葉として機能し始めます。
あだ名で呼び続ける内に、最初からその名前だったかのような。
たとえば、初期には侮蔑の意味合いが強かったであろう「ブタゴリラ」を特に侮蔑の意識なく使い続ける木手くんたちの様に。
ちなみに呼ばれる側も結局どんな呼称だろうが呼ばれてそれが自分のことだとわかれば呼び方として機能してしまう、という話もありそうです。
コンビを組ませていただいている佐藤さんという先輩がいるのですが、その人が呼ばれる時に下の名前(Aさんとしておきます)呼ぶ人がうっかりして「Aさんと佐藤さん!」と呼ぶのです。この佐藤さんは僕のことです。
あまり佐藤さんと呼ばれるのでだんだん自分が佐藤さんな気がしてきます。
つまりはそういうことです。
(もちろん、そこに侮蔑や悪口が含まれている、というのは別の話として許してはいけないのです)


先輩はこの手の話をする時によく「椅子の足」を引き合いに出します。
初期には「椅子は生物ではないのに足を持っているなんて!椅子の支えを動物の足になぞらえて表現したのね。おっしゃれ〜」だったかもしれないけど、今となってはあれは椅子の足でしかない、という。


実は、この話には僕には若干の違和感がある。
僕は「足」は物体(生物、無生物問わない)を空間内に定位するための突起物の総称だと実感するから。


かように、物事を何かになぞらえることは自分にとっては事物の一般化のプロセスなように感じていて、なにかとなにかに共通した構造を見つけ出す行動に他ならないような。。。
オヤジ化してオヤジギャグ(ダジャレ)がいよいよ止まらなくなってきていることの自己正当化の言説かも知れませんが。