作品鑑賞は正解探しゲームじゃない

そうした話を見かけた※りしたので、自分の中でもあらためて。


ミステリで顕著だと思うのですが作品にはある「正解」が隠されていて、読書という行為は、それを読み解く行為である、という価値観があると思います。
でも、そういう読み方が本当にお好きなら、大学入試の数学の問題でも解けばいいのに、なんて意地悪なことを思ってしまいます。
よくある誤解に国語の問題で、そうした「この時の作者の真意を答えろ」「この時の登場人物の気持ちを答えろ」という出題がされているじゃないか、というものがありますが、あれは、本文にそれを答えとするに十分な周辺情報が記載されているのでそれを見つけてまとめるゲームなのだ、ということに気がつくまでは、苦戦するかもしれません。
が、そういう出題があるせいで、作品にはなにか、裏の意図があると思って鑑賞しなければならない、なんて思い込んだりするのですが、虚心坦懐に見ればいいんだと思います。


もっとも、虚心坦懐に見た後での、その人の持つ知識体系と感性とで味付けされた作品鑑賞後の感慨には、僕にとって無価値なものと大きな喜びとともに受け入れたくなるものとの差はあります。
結局、それこそが、その人の「人格」なのだと思うのですが。
多くの作品を鑑賞(作品鑑賞ではなく、その人の生きた軌跡そのものなのだけれども)するのは、この「人格」を磨く行為に他ならない、と思っています。


と、あれこれ書いてしまいましたが、他人様の作品との触れ合い方に水を差す(「水を差す」行為は自分の中ではかなり上位の悪行為です。水を差す行為の他者を屈服させる快感が嫌いなのだと思います。自分のツッコミが下手すぎて結果として他人に水を差してしまっていた過去を思い出すと申し訳ない気持ちでいっぱいになったりします。)つもりはありません。そんなおこがましい。


※端的にはこちら。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080818/1219044114